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【稽古場レポート】① 彼ら自身と寄り添う時間

RoMT Acting Lab.プロジェクトでドラマターグを務めている松尾元による、稽古場レポートをお送りします。

 

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写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日よりRoMT Acting Lab 公演「ギャンブラーのための終活入門」の稽古が始まった。同じ台本の一人芝居を6人の俳優がそれぞれ違ったアプローチで上演する本企画。それぞれ同じセリフが全く違って聞こえたり、「そっか、こういうおじいちゃん/孫もありだな」と思わされたり、お互い語り方を貸し借りしたり、でもやる人が違えば同じ方法でも全く別のものが見えたりと。思っていた通り、面白いことが目白押しである。

 

もちろんこれは稽古場ならではの面白さなのかもしれない。例えば普通の(というと語弊があるかもしれないが)現場で、配役を変えて読みあわせて見たり、様々な演技や演出を試す中で意外な面白さに気が付いたりということは割とある話だろう。いわば洗練されてないからこその面白さ。ただ残念ながら、上演作品として成立させるため、それらは取捨選択され、磨き上げられる必要があり、本番になってしまうことで消えてしまう「あったかもしれない魅力」があるのも確かである。この現場も本番に向かうにつれてそれぞれ選択が行われ、洗練され、そして無くなっていってしまうものがあるのかもしれない。

 

写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ一方で、今回彼らが行なっている作業は、むしろそんな「余分なもの」を改めて肯定していくことから始まっているようにも思われる。例えば俳優個人がもつ「私の話を見て/聴いて」という欲望。ともすれば演技のくどさや全体のバランスの悪さへとつながってしまうので、抑えられる場合の方が多いように思われるが、今回の語りの場合、これがなければ俳優と観客の間にある種の引力が産まれない。ストーリー単体でもかなり面白いのだが、それが「私の話すこの話が面白いので、皆さんに共有したい」という変容を遂げることで初めて上演としての面白さが生まれるのだ。

 

そういう意味で、この試みの面白さは、物語を通して、俳優自身の人間性に寄り添えることなのかもしれない。もちろんある種彼ら/彼女らは語り手を「演じて」いる。それでもなお、その語り口調、おじいちゃんとの距離感、セリフへのアプローチ、ちょっとしたしぐさや表情が、俳優自身のパーソナルな部分を様々な角度から見せてくれるような気がするのだ。それはある人の普段見えていなかった面を垣間見た時の面白さに似ている。私たち観客が見聞きするものは、作家ガリーマクネアの話ではなく、あくまで彼ら/彼女らの話なのだ。

 

写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セリフの中に「・・・ある人がどんな人だったか、短くまとめるのって、むずかしくないですか?どこから始めたらいいんですかね?外見?仕事?評判?じいちゃんがどういう人だったか、っていう評価は、じいちゃんを知ってる人の数だけあるわけで」という箇所がある。まさにこの試みは、そんな短くまとめられない、「ある人がどんな人か」を1時間45分かけて見つめていく企画のような気がしている。もちろん作品化する中でこれらは失われるかもしれない。全く別の様相を浮かび上がらせるかもしれない。ただ、願わくば、このじっくりと人に寄り添う時間を肯定していてほしいと思う。そこに、もしかしたら私たちが普段あまり見つめることのない、俳優たちの、人としての豊かさが詰まっているような気がするのだ。