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【稽古場レポート】③ まねること・演じること

RoMT Acting Lab.プロジェクトでドラマターグを務めている松尾元による、稽古場レポート・第3回目をお送りします。

 

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写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

演劇とは何か。これは演劇界全てのクリエイターが多かれ少なかれ持っている命題であろう。演劇とは何か、なぜ演劇なのか、なぜ演劇でなければならないのかetc.   演劇、つまり劇を演じること。そこにどんな魅力があるのだろう。今回はそのうち「演」という文字に注目しながら稽古場の様子を眺めてみたい。

 

演じるとは何か。架空のキャラクターになって、もしくはなるように見せかけることだろうか。しかしながら本当の意味で俳優はその人になることが出来ない。今回で言えば、ガリー・マクネアの自伝的作品で、俳優はガリーになることは出来ない。ガリー自身ですら、かつてのガリーにはなることが出来ないのだからなおさらである。

 

では彼らは一体何をやっているのだろう。大量の台詞を覚え、喋る。6人が喋る。誰一人として、「〜のように喋る」ということを感じさせず、自分の仕方で喋る。ただ不思議とそれを演劇であると感じる。

 

そうだ。演じるとは、「〜のように」振舞うこととはどこか違うのだ。役になることや語ることと、役のように、また語り手のようになることの、間にある差異。人物のイメージと、俳優の顔/身体/声を比べ、両者が似ているかどうかを考察することではなく、目の前の俳優の姿、声を通して、語られる(演じられる)出来事、物語にアクセスすること。私は観客として、「演」をこのように楽しんでいるのだ。終演後頭の中に残るのは決して少年ガリーの姿ではなく、語り続ける俳優の表情や声なのだ。

 

写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなことを考えている時、翻訳の小畑氏からあるイギリスの演劇の話を伺った。その演劇では、白人女性が演じている役の若かりし頃を、黒人女優が演じていたという。そこには人種の問題、そして年齢の問題等様々な問題が含まれているが、演じるという観点から言えば、年齢は違うとはいえ同じ人物を、全然違う見た目の人が演じても引き継がれ成立する、ということが重要だろう。それはまるで俳優同士が何か薄い生地でできた服をお互いにシェアしているような感覚。これは田野や太田の所属する青年団の連作(ソウル市民やカガク3部作など)からも度々感じられる。ある役の何年後かの姿を別の役者がやる。それだけでなく、もともとその役をやっていた役者が今度は全く別の役で登場する。それでもなお、我々は登場人物を追うことができる。

 

また一方で青年団の例で言えば、1作目で演じていた俳優が2作目に出てきた時、消失しきらないその面影を見ることもある。これもまた演じるというものの特性なのかもしれない。不思議なもので、その俳優から2作目同じ人物を演じている俳優に向けられた台詞は、かつての自分からの言葉に聞こえたりもする(逆も然り)。その場で起こるのは、二人の演技の、ある基準に基づいた俳優の比較(優劣など)ではなく、二つの時間が重なり合う創造的な瞬間である。

 

そして実は「ギャンブラーのための終活入門」からもまた同じ意味で、演じることの魅力を感じてしまう。もちろん一人語りなので、対話はないのだが、ある一人の俳優が語り出す姿が、声が、別の俳優の語りと重なる時がある。それは優劣や類似というものだけではない。ふと、今目の前の現実に記憶の状景が到来し、混ざり合う瞬間。今私は何を見ているのだろうと、聴いているのだろうと、不思議な気分になるのだ。

 

写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

演劇において演じること、なることは、決して着ぐるみを着るみたいな、つまり姿形を変えることではない。目の前の俳優の姿形そしてその声から、それが誰かのもの(俳優自身のもの)かという所有格を剥ぎ取り、その上で何者でもないその身体、声に、仮の所有格を貼り付けたり、重ね貼りしたりする行為なのだろう。面白いことに、身体や声の側にも、貼り付けられる所有格の側にも、かつての名残が染み付いていることなのだ。だからこそ、演じている彼/彼女らの姿からは、その人以上の、無数の影を見ることが出来るのだ。そしてそれは決して着ぐるみの顔ではないのである。