【稽古場レポート】④ 彼/彼女の中で引き継がれていくもの

RoMT Acting Lab.プロジェクトでドラマターグを務めている松尾元による、稽古場レポート・第4回目をお送りします。

 

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写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回のレポートでは、演じるという点に関して見えてきたものを書いた。今回も引き続き演じること、演じた結果のことについて考えて書いてみたい。ただ、今回はより一人で語ること、そしてそれを6人の俳優でやることに注目して書いていこうと思う。

 

この作品の楽しみ方の一つとして、今俳優は何者なのだろうと考えながら見る、という方法がある。どこに視点を置いて語っているかと言い換えても良い。それは語り手なのか、おじいちゃんなのか、少年なのか、先生なのか、友達なのか、お母さんなのか等々。割合を考えてみてもいい。「あ、今はおじいちゃんと孫がちょうど半分だな」とか、「身体はおじいちゃんだけど、声の部分は孫だな」とか、「先生の真似をしている孫だな」とか、「喋っているのは母だけど、それは母目線でなく、母の声を聞いている息子目線なのだな」という具合に。そうすると色々な瞬間に出会うことができる。例えば演じられた人物が見ている景色、役の移り変わりによって変わる景色のダイナミックな反転、さらに視点が語り手に戻ることで見えてくる、同じ状況の、どこか客観的な映像などが不規則かつ連続して見えてくる映画のような瞬間。空間へ誰かとしての視線が、そして言葉が投げ掛けられることによって生じる、だれもいない空間にふと人が現れ、また消えていく儚い瞬間。先生や生徒が演じられることで、ふと他のお客さんが生徒に見えてしまうような瞬間。演技の中に、語り手がその時、または語りの段階で演じている人物をどう思っていたかということが透けて見える、二重のようで実は二重ではない瞬間など、その様相は様々だ。

 

写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういった中で、身体と役の距離は、重要な意味を持っているように思われる。例えば太田宏に対し、他の若い5人の俳優が生み出すおじいちゃんは、おじいちゃんそれ自体というよりも、語り手が思い出しているおじいちゃんの姿という様相が強い。そこには年齢の違いがある。加えて、女性3人にとって、おじいちゃんを身体化させることには、性別の壁がある。そこで、彼女たちは、おじいちゃんのキャラクターや印象をある種誇張し、おじいちゃんの真似をしている少女として提示する事を選択しているように思われる。それに比べると、男性陣のおじいちゃんに無理は少ない。そこにはどこか、孫からじいちゃんに向けて流れる、遺伝子の面影を感じたりもする。同じ俳優がやっているので、同じ顔をしているのは当たり前なのだが、何かその姿が二重に見え、一人がやっていることの意味を強く感じるのだ。対して女性陣の中には、母-子の繋がりを感じる。二人が対話をしているシーンでふと「やっぱり二人の声は似ているな」と驚かされ、当たり前だと思い直す。そんな瞬間があるのだ。同じシーンを男性は、母親的な喋り方をする、コスプレ芝居で乗り越える。

 

6人すべてに共通している事は、まず語り手に自分の軸を置き、その上で年齢や性別的にすんなり入る事の出来る役にはすんなり入りつつ、出来ない役、キャラクター性が強い役は、それがお芝居、ものまねである事を見強調しながら語る手法である。そこにはまず、役の区別をつけ、今誰をやっているのかわかりやすくする効果が生まれる。だが一方で、付随効果として、おじいちゃんなのか、おじいちゃんの真似なのか、おじいちゃんに憧れ、おじいちゃんっぽくなった語り手なのか識別不可能な瞬間も生まれる。そう言った瞬間、私は、ある人が誰であるのかの判断基準について考えさせられる。外見、仕事、語り口調、性格だろうか。しかし、遺伝子的に似た外見を持ち、同じような仕事をし、語り口調も性格も近づいてきた孫と、さらには孫の精巧なモノマネと、おじいちゃん自身はどのように識別すればよいのだろうか。

 

写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな事を考えているうちに、一つの仮定が生まれてくる。つまり、演というものは、ある人物の「その人的な」部分に関する情報の提示なのかもしれない。今回で言えば、じいちゃんらしいと思わせる仕草、口調を記号的に提出し、「この人の事を真似している」と相対的に識別させるための行為である。だからこそ、演に際し、似たような記号を持つもの同士の識別は、似れば似るほど困難になっていく。そこにその人固有の生命、人間性を吹き込み、識別を、そして識別困難な理由を付け加えるものは、その場で進行する出来事、もしくは、見ている方が勝手に想像する背景、つまり「劇」の部分である。私たち観客は、表面の記号に、劇という厚みを見出したい欲望を持っている。人的なものを、人として受け止めたい欲望と言うべきか。その記号的演技の類似性、識別困難性に、理由をつけ、理解させようと試ませるのだ。演者がその遺伝子の引き継ぎを示そうとしているわけではなく、見ている私たちの、裏側を見たいと言う欲望が、そこにはない劇を構築するのだ。

 

写真:臼杵遥志
写真:臼杵遥志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

改めてまとめてみる。俳優が担う面は、演劇の演の部分だ。それは少なくとも今回は、何か心情を見せつけるようなものとはまた違い、人物のお面を被るように、記号的に表側を作る事であろう。そして劇を担うのは、戯曲、そして何よりも観客の想像力だ。それは戯曲上の流れを超えて、戯曲の余白にまで侵食する。言い換えると、人が舞台に立ち行為をする事と、そこにそれが誰で、そこはいつどこで、なぜそこにいるのかと言う理由がつく事。それを少なくとも今回は演劇と呼ぶらしい。