RoMT.

【blog】クラウド、余白、平家物語。

 

静岡でのツアー初日&日本初演を終えました。

 

現在は次なるツアー先、宇都宮公演に向けた稽古をがっつり始めたところです。

 

もちろんまだまだ進化/深化します。本当に「終わりのない旅」です。

 

 

静岡公演では、本当にたくさんのことを教えられました。

 

何よりも、「演劇は観客とともに作るものだ」、ということを、ここまで強烈でダイレクトに再確認する機会になるとは思いませんでした。最初から最後まで笑いに包まれた初日と、集中して張り詰めた空気が心地よかった2日目と、2日間、『ギャンブラーのための終活入門』はまったく異なる“作品”になりました。上演時間も5分以上の差がありました。でも、終演してのカーテンコールは両日とも3回(・・・ありがたいことです)。どちらの日にご覧になっていたとしても、作品はその日の観客のみなさんとともに成立したんだと思えた素敵な反応をいただきました。

 

アフタートーク後に、たくさんのお客様から声をかけていただきました。そこで聞くお話はどれもかけがえのない、おひとりおひとりの“物語”で、、、そう、つまり、感想とかじゃないんです。

 

多くのお客様が、それぞれの物語を話してくださったんです。

 

創り手側である僕らからすると、約2時間の語りを終えて、お客様ひとりひとりから別の“物語”をプレゼントしていただいた。そんな気になりました。

 

物語は交感され、語りは継がれていたんです。

 

それこそ、この作品を通じてなんとか実現したいと思っていたこと、いや、「演劇を作り続けたいと願う理由」そのものでした。

 

 

静岡に滞在する間、稽古の段階では《勘》とか《予感》しか言いようのなかったことを、すべて明確に言葉してもらったという感覚が強くあります。アフタートークの機会を通じて、あるいは公演後に話しかけてくださったお客様の声から、終演後のSNSなどでのリアクションから、『ギャンブラーのための終活入門』という作品を体験いただいたことで、様々な角度に、方角に、深度に、僕らがある意味無意識のままでいたことを、現象として、言葉として、形にしていただいたなあと。これもまた、本当に感慨深い気持ちになりました。

 

 

例えば、今回東京公演をやらないと決めたことについて。

 

この作品製作が動きだし、ツアー日程を組み始める段階から、なぜか「東京ではやらなくていいよね」という気分になっていて、、、それはどうしてだったんだろう? この作品を東京でやるべき理由もいろいろとあるはずだし、もちろんたくさんの方に体験してほしい芝居になるはずなんだけれど、、、どういうわけか東京でやるモチベーションが見つけられない。「やらない」ことに対しての理由は後付けでいろいろと考えられたし、最終的にはアーティスティックな判断でもあったと言えるのですが、でも正直本当のところは自分ではよくわからなかったというか。要は、直感みたいなものしかなかったんですね。ただしこの直感はこれまでのケースだと当たってることが多いので、自分ではその直感を信じる、ということでしかなかったわけです。

 

で、静岡初日のアフタートークに会場となったスノドカフェのオーナーである柚木康裕さんをお招きしたのですが、柚木さんはアフタートークの場で、私たちが今回「東京で公演をすること」に対して違和感を感じていたってことについて、ものの見事に、そしてまったく新鮮な形で解答を提示してくださいました。

 

つまり、この戯曲の通奏低音に流れているのは、イングランドとスコットランドの関係性と “距離感”であって、それは東京と(先日の場合は)静岡の関係性と “距離感”とにぴったり合致するんだ、ということなんです。初日乾杯に残ってくださったたくさんの方々と話したのもこのことでした。中央と地方っていう葛藤は、いつの時代も、どの国でも、意識の一番深い底に存在するんだよなあ。と。

 

100%、合点。そうだよね。

 

そりゃ、(いま)東京でやるわけにはいかないわけだ。

 

『ギャンブラーのための終活入門』は、スコットランドの側から書かれた戯曲なんです。

 

この物語を、中央でただ消費されるってわけにはいかないんです。

 

 

静岡2日目のアフタートークには静岡大学の平野雅彦先生に登場いただき、ここでも多岐にわたる様々なお話をさせてもらいましたが(ここでも最初に平野先生自身の物語を語ってくださって、これがまた抜群に面白かったんです!)、主に2つのことが中心的なトピックだったと思います。

 

ひとつは、《説明的でないこと》。

 

もうひとつは、《物語の生成について》。

 

演劇に限らず私たちが芸術というものに触れているとき、想像の選択肢は常に受け手である私たちの側にあってほしい、と思っています。そして受け手として常に主体的でありたい。芸術が在る空間というのは、いつだって創り手の主体性と受け手の主体性が溶け合い、その化学反応によって生成される。

 

そのとき、物語は、平野先生の言葉をお借りすれば【中性的に】、東京で通し稽古を観に来てくれた方の言葉をお借りすれば【第三者的に】、そして私自身のイメージからすると【クラウド的に】、存在してるんです。演者側からも観客側からも、物語はそのように在って、いつでもどこにでもアクセスできるようになっている。

 

『ギャンブラーのための終活入門』という戯曲の圧倒的な面白さは、その瞬間に、「時間覚(・・・っていう言葉が存在するかはわかりませんが)」が重層的になることにあります。下手したら4つか5つの時間がその瞬間に同居したりしてるときがある。まさに地層のようになってるんですね。そのとき、どの時間の層にアクセスするかは、観客ひとりひとりに委ねられます。だから、創り手であるとき、ヒントは山のように散りばめても、説明はあえて省く。説明は想像性を不用意に制限するフィルターになりかねないからです。もし創り手である私たちがどこかひとつの時間の層を選んで“説明的に”演じたとしたら、観客側の主体性からアクセスできるのもその層だけになってしまう。それって結局、戯曲や観客の想像力の可能性を信じていないことになるのではないか、と思うわけです。できるだけ時間覚の重層性をそのままにして提示することで、多様なアクセスを可能にできるのではないか、、、という点にすべてを賭けるんです。オール・オア・ナッシング。

 

 

説明を省くということは、ある意味では「余白をつくる」ということでもある。この余白の効果だとか余白をどこにつくるか、みたいなことについても、2日目、平野先生と現地制作で協力いただいた中野三希子さんをまじえた打ち上げの席で話が展開するなかで発見があって、本当に面白かった。

 

余白はただ「間をおく」「沈黙を存在させる」ということだけではない。テクニカル的にもちろん重要ではあるんだけれども、特に今回の『ギャンブラーのための終活入門』においては、余白は整理の時間でもある。集中した空気を一度緩めてリラックスしたり息を抜いたり、そこまで起きていたことを少し客観的な引き出しにしまっておいたり、あるいは集中を仕切り直すためにかすれた目のピントを合わせ直したりする時間なんですよね。クラシックのコンサートにおける楽章間、っていうのが一番イメージしやすいかもしれないです。ベートーヴェンの第9であれば、極限のインテンシティに晒される第1楽章の約15分を経験したあと、第2楽章が始まるまでのわずかな合間に、咳をしたり体を伸ばしたり体勢を変えたりする、あの時間です。あれも余白のとても重要な役割。

 

そうした、整理のための余白を、物語のあいだに埋め込む。物理的に小休憩をおくということでもあり、いや、物語の流れのなかに、そうした時間を演出的に盛り込む、ということでもあります。うまく機能してるかどうかについては、これからも公演のたびに検証し続けないといけないわけですが。

 

もうひとつ、余白は「入り込む余地をつくる」ということでもある。観客が自由に想像できる余白。何を想像するか?と言われれば、それは、一言で単純に言えば「気持ち」とか「感情」なんじゃないか、と。いま目の前にいる登場人物がどんな気持ちなのか、何を感じているのか、どんな感情に苛まれているのか、最後に決めるのは観客なんです。だとすると、創り手側は、その余白のある「入れ物」と想像力が流れて対流するための少しの“風”を作ればよいってことなんじゃないだろうか。・・・この感覚は、素晴らしく旨いものばかりが並ぶ七間町の飲み屋で、まさにトークが回り思ってもいなかったことが言葉になっていく美しい対話のプロセスのなかで、改めて発見させてもらったことでした。

 

 

そして、、、これも2日目のアフタートークで話したことで、そして実はずっと自分のなかでくっきりとしたイメージとしてあったにもかかわらず、いままであまり人に話してこなかった(それこそ、二度一緒に一人芝居をやってきた太田宏にすら話したことがなかった)ことなんだけれども。せっかくなので、書き記しておこうと思います。

 

日本で、こうした一人芝居をやると、引き合いに出されるものが主に2つあります。ひとつは、イッセー尾形さん的な一人芝居のスタイル。こちらはまあ、対照的にある優れたコンテンツとして。そしてもうひとつは《落語》です。特に『ギャンブラーのための終活入門』では幾つかのキャラクターを演じ分けることで見せていく選択肢はもちろんあり、そうした意味でこれまでのところ、落語の影響とかスタイルについて言及されることも多い感じがします。

 

もちろん、テクニカル的な部分や効果といった点で、落語を検証する意味はすごく大きいです。参考になるところも多々あります。でも、例えば今回の戯曲を落語的にしようとはこれっぽっちも思わなかったし、それがフィットするとも思ってないです。

 

【ものを語る/物語る/語り】で私自身が明確に意識しているのは、『平家物語』における琵琶法師です。

 

何かの形で伝え聞いた物語を、平曲として琵琶を弾きながら語る、というイメージは、物語の在り方、伝え方、そしておそらく誰に語られるか/誰が聞いているかによって加えられたであろう“尾ひれ”のようなアレンジ、聴き手が多様に想像したであろう情景、臨場感、重層的な時間覚。いま『ギャンブラーのための終活入門』を上演している私たちは琵琶を含めた楽器を手にして語っているわけではありませんが、、、物語の生成と、演者と観客の主体的かつ能動的な関係性という点で、いま自分たちがしていることに一番近いのではないか、と想像してます。

 

 

よく考えてみれば、琵琶法師が琵琶を弾きながら語った物語は、やはり【クラウド的】に在ったんじゃないか。って。

 

 

いまはなんとなく、そんなふうに思ったりしてるんです。

 

 

(田野)