RoMT.

特別寄稿・もう一度喜ぶためのレッスン

ギャンブラーのための終活入門 | 公演概要 | キャスト・スタッフ | 写真

 

もう一度喜ぶためのレッスン

〜青年団リンク RoMT 第6回公演 『ギャンブラーのための終活入門』に寄せて〜

 

文責: 松尾 元 (『ギャンブラーのための終活入門』ドラマトゥルク)

 

 

どこかに置き忘れた喜び

 

演劇を見ること。そこには喜びがある。まだ見ぬ何か(誰か)と出会う喜び。そこにいるはずの無い何かを、上演を通して見ることが出来る喜び。そして、まるで渦中の人間として、出来事を追体験出来る喜びなど、その様態は様々だ。ただそのどれを求めるにせよ、私たちは、日常では味わえない喜びを求めて、劇場(上演場)へと足を運ぶことに、変わりはないだろう。実際私自身も、日常の喧噪から距離を置き、また日常で戦うための喜びを得に、舞台へ赴いている節がある。日常を生き抜くために、上演に身を置くちょっとした非日常での喜びが、私にも、そしておそらく多くの演劇好きの方々にも必要なのだと思う。

 

しかし、最近、観劇において妙な既視感が、この喜びを妨げる時がある。例えば観劇の際、ある作品を「なんか、チェルフィッチュっぽいな」と感じたとき、私にはその作品を、「いかにチェルフィッチュと近い/遠いか」で見てしまうことがある。嘗て関わった作品のアンケートでは「青年団30%、ままごと30%、マームとジプシー15%、サンプル10%、地点10%にオリジナル要素5%」と書かれたこともあった。これは仮説だが、このように、観劇の回数を重ねて行くと、どこかのタイミングで、始めて演劇に興奮した時間を忘れ、手法に注目し、全てを「〜っぽさ」で消費してしまう時期に入ってしまうようだ。さらに、他の演劇作品だけでなく、映画、小説、アニメ、漫画、美術など、様々なジャンルの「〜ぽさ」すら、観劇時に呼び起こされることがある。無意識のうちに私たちの中へ築き上げられてきた表現のデータベースが、観劇を「未だ体験したこと無いもの」では無く「既に在ったものの再体験」として消費させていく。比較等から産まれる新しい体験も在るので、このような観劇態度は決して悪いものだとは言えないが、「初体験」が失われていることについては、少々寂しさを感じざるを得ない。

 

このような一抹の寂しさを抱えた私が、始めてRoMTの一人芝居シリーズ(前作『ここからは山が見える』再演)を見たとき、久々に「初体験」の驚きと喜びを感じた。かれらが用いるスタイルは、ただ俳優が目の前の観客に語りかける、それだけにも関わらず、である。反復やラップ、特殊な身体表現を用いるわけでもなく、ただひたすら俳優が物語る極めてシンプルな手法。流行りに反して、なにもののコピーにもシュミラークルにもなり得ないこの方法に、演劇の根源的な喜びを取り戻す一筋の光を感じたのだ。迫りくるデータベースの影を振り払い、3時間にも及ぶ間、目の前の俳優(太田宏氏)と彼が紡ぐ出来事、そして、作品に触発され思い起こされる私自身の記憶に身を置く、非日常的な喜びを味わったことを強く覚えている。久しぶりに、目の前のものを、始めてのこととして楽しんだ気がしたのだ。そしてこの喜びは、同様のスタイルを用いた、今回の『ギャンブラーのための終活入門』にも引き継がれることとなる。

 

私は何に喜びを感じたのだろう。私は何を「初体験」と感じたのだろう。静岡公演までの道のりで私が感じたことを基に、つたないながらも書き綴ってみたいと思う。

 

 

在るものに出会い直すこと

 

いきなりで申し訳ないが、少々前提に茶々を入れるところから始めたいと思う。初体験と言う言葉を使ったが、実は稽古場、及び会場で、本作品に対し、「落語っぽい」という言葉が、特に俳優の演技の話題の際、頻繁に飛び交った。確かに私自身その「落語っぽさ」を感じたことは確かだ。ただ、稽古に参加していただいた皆様、静岡の公演にいらっしゃった皆様の声を聴くと、どの方も「落語を思い起こすけど、落語では決して無い」と仰っていた。それには私も同意である。おそらく、前述した観劇を単なる消費へと導く「〜ぽい」とは一線を画しており、一種の初体験性は消えては無いだろう。では、皆様が感じられた『ギャンブラーのための終活入門』と落語の違いとは何なのだろう。落語に深い造詣が在るわけではないので、今の段階で「落語は演劇か?」など、落語と一人芝居一般の本質的な違いについて語ることは避けたい。が、本作品との違いについては、皆様のお話伺っているうちに、少しずつ見えてくるものが在った。そして、その違いこそ、私たちが本作上演中に何を見ているのかを、解き明かす種のように感じられたのだ。

 

通常落語を見るとき、私たちは噺家の話を聞くだけでなく、その姿を見る。歴史の積み重ねの中で磨き上げられてきた、語り分けの技術から、それぞれのキャラクターや語られている場面を思い描き、心を動かされる。一方『ギャンブラーのための終活入門』においても、私たちは俳優太田宏氏の挙動に注目し、そこから、劇中風景を自由に思い浮かべる。しかし、高座に座り語る落語家とは違い、彼は歩き周り、椅子に座り、壁や窓の外を眺め、そしてトイレに行く。その動的なエネルギーが、彼自体だけではなく、空間の広がりをも知覚させる。「そうか、ここにはこんなモノもあったのか」と気が付かされるのだ。俳優を空間との関わりの中で見る。この点こそ、皆様に「落語ではない」と感じさせた点では無いだろうか。

 

この、一見当たり前のような要素は、実は本作を語る上で非常に重要なポイントであるように思われる。結論から言うと、それは本作が、目の前に在るものから無いものを見せるだけでなく、無いものを見ようとする私たちに、逆に在るものを発見し直させるという特徴を持っているからである。例えば、静岡公演において、太田氏の語りとアクションは、スコットランドのパブやおじいちゃんの家、病院、学校などの様子を自由に想像させる。と同時に、彼がものに目をやり、触れ、また演技に関わらせて行く過程は、ずっしりと様々なジャンルの本が並べられた本棚や、壁にかけられている絵画、おしゃれでたまに不思議な小物の数々、窓から見える静岡の山の風景、昼夜でがらりと変わる景色の数々など、今ここにしかないものへの気付きに導いてくれる。気がつかれたモノ達はさらに、「劇中のものの置き換え」と、「スノドカフェの装飾など」を行き来することで、積極的に劇を見よう、聴こうとする私たちの目や耳に、今まで気がつかなかった一面を見せてくれたりもする。例えば、何気なく窓の外に見ていた山は、次第にあまり馴染みの無い遠く野山のように見えて、どこか重要な背景のように思えてきた。逆に、夜公演で偶然聴こえた花火や虫の音は、緩やかに作品に溶け込み、まるで劇の時間の中から聴こえてくる音のように感じられた後、会場の外側の現実的な時間に意識を向かわせたりもした。在るはずの無いものが見え、在るはずのものが気にも留まらなくなり、また在るものが違うものに見え、そして在るものが在ることに気がつく。そんな、おそらく落語的というよりも、演劇的と言える側の要素こそ、『ギャンブラーのための終活入門』も魅力であるように思われる。

 

加えて、上演中に気がつかされるモノたちは、紅茶につけたマドレーヌのように、時に私たちの記憶を呼び起こす装置として作用する。スノドカフェに何度も訪れたことのある方は、空間に漂う雰囲気、匂い、音、モノたちから、かつてのイベントや、飲んできたコーヒーの味等を思い浮かべたかもしれない。始めての方は、道中の心躍る経験や、別の喫茶店等の思い出が脳裏をよぎったかもしれない。そして、それら記憶や連想、気付きが、上演中の出来事として日常から区切られ、物語になっていく。語られる物語の外側に在る、しかしながら上演の中に在る、私たちそれぞれだけが持つ物語。『ギャンブラーのための終活入門』を通して私たちは、まるで鏡を見るかのように、私の中に在る、普段気がつかないような物語の種とまで、出会うこととなるのだ。

 

ここには無い劇を見ようとし、逆に普段より注意深く、もしくは普段と違った形で、在るものと出会うこと。そして、在るものを通して私自身の過去に出会うこと。これら二つの出来事は、おそらく決してこの作品だけでなく、どんな作品であっても起こりうることだと思う。ただ、芝居のストーリや演技、方法論にばかり目をとられてしまうと見えなくなるものでもある。そんな、少なくとも私にとって忘れ去られてしまった演劇の楽しみを、『ギャンブラーのための終活入門』は、改めて教えてくれたように思えたのだ。

 

 

1人語りが取り戻すもの

 

一方、本作品が用いている、1人語りと言う方法もまた、私たちに刺激的な経験を与えてくれることも確かである。通常、演劇は、舞台上と観客の間にかわされる約束事の上に成り立っている。舞台上は物語中の場所であり、そこには劇中の時間が流れている、という共通認識のことだ。だから私たちは、舞台上で起こる出来事を、フィクションとして処理し、楽しむことが出来る。そんな前提が頭に在るにもかかわらず、俳優と目が合うと、一瞬ドキッとする。見えない壁の向こう側、客席と言う安全地帯にいるはずなのに、見る側から見られる側へと無理矢理引き上げられたような、気恥ずかしさに包まれる。この瞬間、私は物語の外にいながらも、俳優と繋がる、変な時間の中へと引き込まれる。客席とは一線を置いた物語上の時間と、舞台上と客席が共有する上演中の時間。これら二つを持つ演劇だからこそ産まれる、特徴的な時間だと言っても良いだろう。これが客席へと語りかける一人芝居だと、頻繁に起こる。むしろ、この特徴的な時間こそ、一人芝居を一人芝居たらしめるものだと言ってよいのかもしれない。彼が目を合わせ、私に話しかけてくる。今はセリフだろうか、彼の言葉なのだろうか。私に語りかけているのだろうか、それとも、私を通して、「今ここ」にいるはずの無いキャラクターへと語りかけているのだろうか。どちらにせよ、私は彼と、そして彼が語る記憶の世界に、一瞬、参加した様に感じる。これは、舞台上の対話や出来事を目撃し想起するだけではなかなか味わえない、私の身体が変化するような驚きだ。そしてまた、特殊な演出法にのみ注目してしまうと見逃してしまいがちな、時間と場所を共有している、ライヴパフォーマンスならではの驚きである。『ギャンブラーのための終活入門』という作品は、この演劇的な驚きの側に立っている。

 

一瞬の参加体験がもたらすのは、これもまた、観客全体の体験に対する、観客個人の体験である。俳優に見つめられたり、俳優が近づいてきたりする瞬間は座る位置によって大きく異なり、またその度合いも場面によって異なってくるだろう。つまりある種誰1人、同じ経験は出来ないのだ。逆に、他の観客は話しかけられている観客を、外側から、孫であったりおじいちゃんであったり、クラスメートであったりと、劇中のキャラクターに見立て見る時間が産まれるが、話しかけられた観客の方はその体験を獲得し得ない。このように観客は、それぞれが劇内部との接続と切断を経験し、私だけの体験を保持して行くのだ。

 

そしてこれも通常の舞台で起こりうることの1つである。俳優と目が合ったり、キャラクターに感情移入したり、一方で他のお客さんの仕草が気になったりと言うこともまた、上演中に度々起こることだ。そんなある種豊かな(ケータイ電話の着信音に疎外されるなど、とある種の不幸もあり得るが)上演体験は、しかしながら「内容やテーマを楽しまなければならない」「正しく理解しなければならない」という強迫観念によって時より、狭められてしまう。そんな息苦しさに対し、RoMTの一人芝居シリーズは作用して行く。太田氏の演技は、無理矢理引きつけることはせず、しかしながらふと目を向けると、その姿が自然に脳裏に焼き付くような色気に溢れている。そんな太田氏に目を向けると徐々に、彼が戯れる、客席を含めた空間へ、視野が広がって行く。そこからまた色々な連想を広げて行くと、太田氏と目が合い、驚かされ、また劇の時間へと導かれる。彼の語りは、まるで、客席から感じられる豊かさの幅を今一度広げ、演劇の力を肯定するリハビリゼションとしてのようだ。そして、彼の姿を通して私たちは演劇を見る豊かさを取り戻す。そんな可能性を感じさせてくれるのである。

 

 

今ここに在る物語、そしてその先の物語へ

 

『ギャンブラーのための終活入門』の作者、ガリー・マクネアは、過去の出来事を語る作品にも関わらず、本作を、全て過去形ではなく現在形を用いて執筆している。それは彼から私たちに送られた、「今目の前で起こることを楽しめ」というメッセージに思えてならない。つまりこの作品は、過去の出来事を正確に伝える作品ではなく、孫から見たじいちゃんを思い起こし、今まさに思ったことを交え、お話にして誰かに伝えようとする「現在」の物語だということだ。真実や正しさは重要なのではない。実際じいちゃんの記憶には食い違う場面が在り、もとの話ですらどこまで本当なのかわからない。しかし、それでいいのだ。重要なのは、英雄でも何でも無い、博打打ちの老人の一生が、物語として尾ひれがつきながら、常に新しい物語として語り継がれることなのだ。そして、ガリー・マクネアからRoMTへ、言語を変えつつ伝わったこの物語もまた、創作を通し、解釈され、演出され、そして観客の前で、始めてのものとして語られる新しい物語である。実際ガリー・マクネア自身も、本作の「演出家のための前書き」において、「自分がその物語を生きたかのように、語って下さい。そうして、全ての登場人物が、あたかも自分が実際に知っていた人たちであるかのように、彼らに生命を吹き込んで下さい。この物語を、あなた自身の物語にして欲しいのです。」という言葉を残している。この言葉に応答するかのように上演された、語り手のじいちゃんの物語であり、また彼らが聞き、そして伝えようとする、彼らだけのだけの、「今の」じいちゃんの物語。このように、RoMTの試みは、じいちゃんの話をモデルとしたコピーを作ることではなく、起源を持ちつつも、常にオリジナルを生み出して行くことに他ならない。そして、そんな試みが繰り返されることこそ、ガリー・マクネアが戯曲に込めた希望なのだと感じられるのだ。

 

さらに、これまで強調してきたように、物語は見る側に受取られる過程で、上演の構成や偶然、また個人的な記憶や驚きと絡み合い、彼らの話から、私たちの話、そして、私だけの話へと、変化して行く。この舞台上から客席への伝達もまた、オリジナルからオリジナルへの変化である。語り手と言うキャラクターから架空の聞き手に対し語りかけると言うフレームを通し、太田宏氏が観客の皆様の中に、新たなじいちゃんの物語の種を植え、それらが芽吹き伝達されることにより、また新たなオリジナルの物語が産まれてくるのだ。

 

実際、上演後至る所で、花開く片鱗が見受けられた。アフタートークゲスト方々や演出の田野氏や俳優の太田氏のもとへ話をされにいらした観客の方々の口からは、感想と共に、数多くの「身近のギャンブラー」の話が語られた。「自分の祖父もそうだった」「叔父が競艇好きで」「知り合いの祖父がほぼ全財産すったらしく」など、コミカルで、でも深刻で、救い様が無く、ただ憎めない話の数々。確かに上演後の時間なのだが、そこにはまた新たな上演めいたものが産まれているように見受けられたのだった。ここで共有された物語はまた、どこか別の場所へと伝わって行くのだろう。ガリー・マクネアからRoMTへと受け継がれたバトンは、こうして形を変え、新たな目を咲かせて行くのだ。

 

最後にもう一度繰り返すが、RoMTが『ギャンブラーのための終活入門』を通してやろうとしていたことは、決して新しいことではない。むしろどんな演劇にも起こりうる類いのものだ。しかし、必死に作品を見、「正しく」理解し、楽しもうとした時、こぼれ落ちてしまう類いのことでもある。そんな一生懸命に疲れ果てた私へ、「あなただけの体験をゆっくり楽しめばいいさ」と一言声をかけてくれる。そんな優しさに溢れている。そして少しずつ楽になった私は思い出すのだ。想像を巡らせる楽しみを。空間に溢れた物語の種を。そして、演劇を通して私自身に出会い直す驚きを。RoMTによる『ギャンブラーのための終活入門』という一人芝居は、心躍らされるお芝居で在るだけでなく、演劇の喜びを取り戻す、ある種のレッスンなのである。