RoMT.

【blog】おおらかさと覚悟/ステージサイドシート

4年ぶりの『十二夜』再演に向け、昨日から公演会場の横浜・若葉町ウォーフに小屋入りし、準備がはじまりました。

 

このタイミングで久しぶりにブログ的なものを書いてみようと思います。

 

「演劇の豊かさはどのように宿るか」ということについて考えるときに、私は毎回ロンドンにあるシェイクスピア・グローブ座(Shakespeare’s Globe)のことを真っ先に想い浮かべます。・・・まあ、そこで行われているすべての演目がシェイクスピア作品の上演として演劇として面白いわけでは必ずしもありません(実際、昨夏私が現地で観た『オセロー』は、あの名優マーク・ライランスがイアーゴを演じるという圧倒的なアトラクションがありながら、全体的には相当に低調でした)。それでもグローブ座で芝居に触れるときが、私にとっては、一番自然で一番心地良い劇場体験であるに思います。

 

イギリスの劇場文化というのは常に社会生活の一部に内包されています。文化芸術は高尚にして拝み立てるような存在ではなく、言ってみれば日常を豊かにするための“出汁”のようなもの。気軽な仲間たちとふらっとやってきて、お酒を片手に劇場に入り、幕間や終演後に「あーでもないこーでもない」と意見を交わす。そうやって日々の幸せを紡いでく手段として、劇場があります。

 

そのなかでも、グローブ座が特別なのは、そこを訪れて上演される作品に触れるたび「私も世界の一部なんだなあ」と強く実感することができることです。あの空間にあるのは、日常そのもの。そして私たちの“日常=普通”が、いかに“非日常=特別”であるか(とてもイギリス的な言い方をするならば、Extraordinary, ordinary life)をこれほど見事に純度高く教えてくれる場所は他にあまりない。だから、グローブ座で芝居を観るときはいつでも、本当にリラックスした気持ちでいられるんですね。世界の感じ方や見え方なんてそもそも違っていていいし、「作品のテーマは何か」「作者の言いたいことは何か」なんていう無駄な答え探しをする必要だってないし、人と違っていいからこそ私は世界の一部として存在していいんだと、具体的に実感できるようなシンプルかつ深い仕掛けが、あの空間にはあるわけです。

 

さかのぼることちょうど今から10年前(!)にグローブ座に行ったときのことを書いた私個人のブログの投稿を、4年前RoMTで初めて『十二夜』を上演した際、このサイト上にアップしました。

 

https://romt.org/?p=316

 

再度になりますが、加筆・修正しつつ一部だけ引用します。

 

「舞台で何か面白いことが起こる、あるいは登場人物の誰かが可笑しなセリフを言う。観客はみんな声をあげて笑います。笑い声が共有される。そこまではどこの劇場でも起こることです。でもこの円筒型の劇場、舞台と客席とが照明によって区切られていない劇場では、観客が声をあげて笑っているときの“表情”、そのあと口元が弛みっぱなしで次のセリフを聞いている“表情”までを共有することができる。長時間暑い日差しの中で平土間に立ってるたくさんの観客を見て「疲れないのかなあ」って思い遣ったりもするし、でもそんな彼らが芝居の最後の最後まで微笑を崩さずに本当に楽しんでる様子だって見ることができる。あるいは物語上で何か緊張が走る場面があれば、急にぐっと締まる空気を感じるだけじゃなくて、それをやっぱり観客の表情や態度の中に見ることもできる。これは決してバルコニー席だけの特権ではなくて、平土間の観客だって、ふと目線を高くしたら2階3階にいる観客の表情を観ることもできる。

 

でも、この劇場のなかで、観客ひとりひとりはまったく違う情報を受け取っているんです。僕がいたバルコニーのサイドの席からは、上空を舞う飛行機の音、飛行機雲、時々客席に飛び込んでくる鳩、暑い日差しと雲で蔭ることのありがたさ、遠くからうっすらと聴こえる工事の音、そういったものが芝居の世界と一緒に存在してみえました。僕が観たものを全員が均一に観ていたわけではありません。僕がいた反対側のバルコニー席からはまた別の空の表情が見えただろうし、平土間からは芝居の向こうにバックステージの動きなんかもみえるはず。そもそも舞台上の情報もまたしかり。客席のどこにいるかによって、見えているもの、想像するものはまったく違う。この劇場で(ほぼ)全員が等しく共有できるものは、ただ唯一、シェイクスピアの書いたセリフしかありません。

 

これらすべてが、“劇場”で起こることであり、“演劇”を形作っているんですね。ここであえて、ピーター・ブルックの歴史的発言を引用。

 

どこでもいい、なにもない空間―― それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる―― 演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。

 

こうして明確に、演劇の中には観客の存在が含まれている。観客は演劇をただ傍観するのではなく、既に演劇の中にいて、演劇を構成する。舞台上でつくられているものが演劇なのではなくて、劇場の中にあるものが演劇だ、ということ。そして、劇場は決して切取られた非日常の中にあるのではない、ということ。だって飛行機や遠くの工事の音も、鳩も、日差しや雲も、この劇場の“中”に存在するんだから。劇場の中にあるものが演劇だとすれば、これらも全部演劇を形作っている。この劇場には天井がなく、だから舞台上の俳優が上をみると青空があり(時には曇天や雨天にもなるけれど)、でもその“先”にあるもの、天国かもしれないし神様かもしれないし、別の世界かもしれない、そういったこの場所以外の場所と、ここはちゃんと繋がっているんだ、だからここは世界の一部であり、つまり、世界そのものが演劇であり、舞台であるのだ、と。この場所はそのメタファーであり象徴であり、だからこそ≪The Globe=地球≫なんです。」

 

これを書いてから10年が経ち、いつのまにか自分の演劇活動において、あるいは演劇や舞台芸術との関係性において《核》になっていると思えることは結局こういうことなんだなあ、、、と改めて感じます。

 

演劇あるいは劇場文化というものに、私自身は「おおらかさ」を、そしてリラックスして勝手な解釈を展開しながら楽しめる環境を求めているのだと思います。一観客としては最近、もっぱら演劇の上演を観に劇場にいくよりも寄席にいって落語を聞くことのほうが多くなりました(あともうひとつは吉本新喜劇ですね)。作品そのものの面白さを味わう素晴らしい経験とは全く別のところで、私にとっては、東京の現代演劇や劇場はどうも尖りすぎていて、客席にいるときにその緊張感に耐えられないことがままある。その点、寄席やなんばグランド花月の“ゆるさ”は本当に心地良いし、それだけではなくむしろ様々な想像を掻き立てられ、感情を揺さぶられたりもする。

 

だからこそ自分が演劇をやるときには、専門家たちによる圧倒的にプロフェッショナルな仕事を、できるだけおおらかにリラックスして楽しめるような環境でお届けできるようにしたいし、今後はそういう形でしか作品を上演しないと覚悟を決めたのです。

 

その意味で、今回『十二夜』を再演するにあたり、《若葉町ウォーフ》という素晴らしい場所に出会えたのは本当に幸運でした。そして、この素晴らしい空間の中で、グローブ座に“在る”ような上演が常に日常と競るあの感覚を、そもそも私たち一人一人見るものが異なるが故にこの世界はこの世界を形成しているんだという実感を、なんとか顕在化できないだろうかと考えました。

 

そのための試みのひとつが、舞台を囲むように設置した【ステージサイドシート】です。

 

今回は上手下手の両サイドと正面からの三方向に客席がある形になりますが、客席のどの席に座っても「全ては見えない」作りになっています。サイドからしかみえない表情や絵がむしろ多々あり、正面からみると何が起きているのかわからないような瞬間もあります。必ず死角がある。でもそれこそが《この世界のそのもの》だと思うのです。共有体験としてあなたに聞こえる音と声から、視覚が捉えたものをヒントにして、自由にそして様々に想像して楽しんでいただけたらと願っていますし、そのために俳優や俳優の個性はオーディエンスの前に存在しています。

 

そしてステージサイドシートを今回正面の一般席よりも抑えた価格に設定していますが、これは決して「サイドからだと舞台が観にくい」という理由からではありません。グローブ座の“YARD”、いわゆる立ち見の平土間が常に「£5(現在のレートだと700円程度)」で販売されているように、世界の在り様を異なる角度で実感する経験を気軽に楽しんでいただきたいから、というある意味クリエイティブな理由からです。イスも一般席と全く同じものを使用していますので、ステージサイドシートのみベンチになっていたり座りにくいということもありません。

 

今回の上演は、「RoMTは今後こういう形の上演を行っていきます」という宣言のようなものでもあります。覚悟は決まっています。あとはお客様をお迎えして、楽しんでいただくのみ。様々な文化が根付く横浜・若葉町の一角で、みなさまのご来場を心からお待ちしております。(田野)

 

 

十二夜(2019年新演出版)