RoMTは如何にしてシェイクスピアに向かうのか その②

演出家の田野です。

 

おととい22日、初の通し稽古を行ないました。

だいぶ粗い通しではありましたが、、、全体の形はみえました。

もうシェイクスピアでしかありえないと実感する場面、

まだまだ表面的なところに留まっているなあと感じる場面、様々ですが、

現時点で、全体としては良い方向に進んでいるように思います。

ここからの2週間、急速に精度をあげていきます。

 

さて、シェイクスピアについて過去に書いたものを焼き直してお届けする、

「RoMTは如何にしてシェイクスピアに向かうのか」という大それたタイトルの新コーナー、

今回が2回目です。

 

今回はロンドンのShakespeare’s Globeで観た、『お気に召すまま』の話。

自分にとっては「演劇の本質」について整理するきっかけになった日でもあります。

お気軽にご一読くださいませ。

 

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【2009/6/2】 お気に召すまま @Shakespeare’s Globe

 

6月2日マチネで観劇。

かつて演出の勉強のためにロンドンに3年間住んでて、帰国後も何度か遊びに来て、いまも芝居に関わる仕事して、そしてやっぱりシェイクスピアが大好き。・・・にもかかわらず、今回初めてShakespeare’s Globe(以後、グローブ座)でちゃんと芝居を観ることになりました。うーん、何でいままでここで芝居を観なかったのか、、、よく分からない。神様の思し召しとでも思っておこう(汗) 確かにそんな自分が恥ずかしい!とは思うんですが、逆に、やっぱり今回の今のタイミングだからこそわかることとか気がつくこととか切実なことっていうのがきっとあるわけですよ。実際、今回グローブ座で観て感じたことっていうのは、実感として自分の中にずっと残っていくだろうし、ひょっとしたらちょっとした武器にもなるかもしれない。それらは今だからこそ、自分のなかで正しく系統付けて整理できるんだと思うのです。

今回観た演目は『お気に召すまま(As You Like It)』。ちなみに、この日の前日の昼間には『ロミオとジュリエット』をやってました。計画を立ててたときには一瞬だけ迷ったんだけど、わりとすっと『お気に召すまま』をみるって方に惹かれて決定してましたね。それは結果的には大正解でほんとよかったと思います。これはさすがに自分で自分を褒めてやりたいぐらいです(笑)。とはいえ、やっぱりこの劇場でロミジュリのバルコニーシーンもちょっと観てみたい気もしますけどね。それはまたいずれ。

さて、今回僕にとって重要だったのは、≪昼間に観る≫ということでした。シェイクスピアの時代、照明機材などはもちろんなく、日の昇っている明るい時間帯に上演が行われてたわけです。ヨーロッパの夏は日が長いからもう少し遅い時間でも大丈夫なんだろうけど。今回は明るい日差しの中で、シェイクスピアが“演劇”をどんなふうに想定していたのかを感じてみたかったのでした。その上、純粋に舞台の芝居を観るためだけだったらちょっと観にくいかもしれないけれど、劇場や観客の様子とかも観察できるようにと、バルコニーのサイドの席を選びました。

 

「演劇とは何か?」と問われたとき、いろいろなものの言い方が可能だし、ひとそれぞれ何を大切にするかによって解釈も違う。ああだこうだとムズカシそうな説明をすることだってできる。だけどこの日グローブ座にあったのは、たったひとことで全てを説明できてしまうものでした。

 

「Theatre is the shared experience.」

 

もうバカみたいに自明なことだけどね、、、でもそうなんですよ、結局。このシンプルな、シンプルすぎることが、どれほど強く美しく稀有なことであるか。いままでも知ってたはずなのに、ほんとはいままで何も知らなかったんじゃないかって思えてくるぐらい、強烈なshared experienceがこの劇場にはあって。僕はもうその事実だけで全然泣けました。

舞台で何か面白いことが起こる、あるいは登場人物の誰かが可笑しなセリフを言う。観客はみんな声をあげて笑います。笑い声が共有される。そこまではどこの劇場でも起こることです。でもこの円筒型方の劇場、舞台と客席とが照明によって区切られていない劇場では、観客が声をあげて笑っているときの“表情”、そのあと口元が弛みっぱなしで次のセリフを聞いている“表情”までを共有することができる。長時間暑い日差しの中で平土間に立ってるたくさんの観客を見て「疲れないのかなあ」って思い遣ったりもするし、でもそんな彼らが芝居の最後の最後まで微笑を崩さずに本当に楽しんでる様子だって見ることができる。あるいは物語上で何か緊張が走る場面があれば、急にぐっと締まる空気を感じるだけじゃなくて、それをやっぱり観客の表情や態度の中に見ることもできる。これは決してバルコニー席だけの特権ではなくて、平土間の観客だって、ふと目線を高くしたら2階3階にいる観客の表情を観ることもできる。

でも、この劇場のなかで、観客ひとりひとりはまったく違う情報を受け取っているんです。僕がいたバルコニーのサイドの席からは、上空を舞う飛行機の音、飛行機雲、時々客席に飛び込んでくる鳩、暑い日差しと雲で蔭ることのありがたさ、遠くからうっすらと聴こえる工事の音、そういったものが芝居の世界と一緒に存在し見えました。僕が観たものを全員が均一に観ていたわけではありません。僕がいた反対側のバルコニー席からはまた別の空の表情が見えただろうし、平土間からは芝居の向こうにバックステージの動きなんかもみえるはず。そもそも舞台上の情報もまたしかり。客席のどこにいるかによって、見えているもの、想像するものはまったく違う。この劇場で(ほぼ)全員が等しく共有できるものは、ただ唯一、シェイクスピアの書いたセリフしかありません。

これらすべてが、“劇場”で起こることであり、“演劇”を形作っているんですね。

 

ここであえて、ピーター・ブルックの歴史的発言を引用。

どこでもいい、なにもない空間 ―― それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる ―― 演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。

こうして明確に、演劇の中には観客の存在が含まれている。観客は演劇をただ傍観のではなく、既に演劇の中にいて、演劇を構成する。舞台上でつくられているものが演劇なのではなくて、劇場の中にあるものが演劇だ、ということ。そして、劇場は決して切取られた非日常の中にあるのではない、ということ。だって飛行機や遠くの工事の音も、鳩も、日差しや雲も、この劇場の“中”に存在するんだから。劇場の中にあるものが演劇だとすれば、これらも全部演劇を形作っている。この劇場には天井がなく、だから舞台上の俳優が上をみると青空があり(時には曇天や雨天にもなるけれど)、でもその“先”にあるもの、天国かもしれないし神様かもしれないし、別の世界かもしれない、そういったこの場所以外の場所と、ここはちゃんと繋がっているんだ、だからここは世界の一部であり、つまり、世界そのものが演劇であり、舞台であるのだ、と。この場所はそのメタファーであり象徴であり、だからこそ≪The Globe=地球≫なんです。

その事実をシェイクスピアは、まさにこの『お気に召すまま』の中で明確に語っているのです。

 

老公爵  この、かぎりなく広い世界という舞台は、

このわれらが演じておる場面よりも、

はるかに痛ましい光景をしめしているのだ。

ジェイクイズ  世界はすべてお芝居だ。

男と女、とりどりに、すべて役者にすぎぬのだ。

登場してみたり、退場してみたり、

男一人の一生の、そのさまざまな役どころ、

幕は、七つの時期になる。     (阿部知二訳)

 

このセリフを聞いて、、、鳥肌が立ちました。たぶん、ようやく、本質的なことを理解できたと思う。このセリフを実際に聞き、実際にその様を目にし、全身で感じる。これを体験するために、今回ロンドンに来たんじゃないかなあ、って本気で思いました。ちょっとやそっとでは忘れられない経験になりましたね。・・・・・・だから、「なんでもっと早くここに来なかったのか?!」って自分に腹立たしくもなったわけですけど。まあでもきっと、やっぱり、今の僕の状態だからこそ理解できたんだと思う。それはほんとにそう思います。

 

もうひとつ、これから僕にとってすごく重要になるだろうなって発見をしました。結局これも突き詰めていけばさっきの「shared experience」に繋がるんだけど、、、《シェイクスピアのすべてのセリフは観客に向けられている、と考えることもできる》っていうことなんですよね。で、これがはたしてシェイクスピアだけのことなのか、あるいは他の作家の芝居も全部当てはまるのか、あれからわりとずっと考えてるんですが、まだ結論は全然でません。まああわてず時間をかけて考えます。

普通私たちは、シェイクスピア作品に登場するモノローグが観客に直接的に投げ掛けられ問われている、というところまでは想像ができる。ところが、再び、舞台と客席とが照明によって区切られていないこの劇場で、舞台上で行われているセリフの応酬、対話であれ会話であれ、それらですら観客に向けて直接話すことが「できる」ってことに気がついて、驚いてしまった。

例えば、、、身を隠すために男装しているロザリンドと、その従妹シーリアの会話。

 

シーリア  お姫さま、どうかおききくださいまし。

ロザリンド  いってちょうだい。

シーリア  そこに、その人は、傷ついた騎士みたいに、身を横たえていました。

ロザリンド  そんな眺めをみるのは、あわれなことだけど、その背景をみごとに浮き上がらせるわね。

シーリア  あなたの舌に、「どうっ」って叱ってちょうだい。見境なしに跳ね出す馬みたいだわ。あの人は、狩人のような装してました。

ロザリンド ああ、縁起が悪い。あたしの心の小牡鹿を殺しにきたのだわ。

シーリア  そんな合いの手なしに唄わせてちょうだい。あなたは、あたしの調子を乱してしまうじゃないの。

ロザリンド あたしが女だってこと忘れたの? 思ったこと話さずにはいられないのよ。ね、もっと話して。

 

ここのやりとり、今回のプロダクションの中でもひときわ面白かったところですけど、このセリフを観客に直接話しかけてるって、あんまり想像できないじゃないすか、字面だけで読むと。ところがこれが、成立したんですよね。どんなふうかというと、一番最後の「あたしが女だってこと忘れたの? 思ったこと話さずにはいられないのよ。」のところ、これを平土間の一番前で舞台に寄りかかって観てる女性のお客さんがいるとしよう、そのひとに直接話しかけると、「(あたしが女だってこと忘れたの? 思ったこと話さずにはいられないのよ。)女ってそういうものでしょ?話思いついたら脈略なくても話するものじゃない。でしょ?」って感じになります。そういう感じで考えていくと、確かにどのセリフも観客に直接話すこともできるようになってくる、んだよ。これが。

つまり、パプリックディベートみたいなものなんですね。そういえば、イギリスって討論番組好きだもんね、「うちに火をつけたのは元カノか?」「血の繋がりがないことがわかった途端、姉が姿をくらました!」とか、朝9時台とかそんな感じの観客参加型の番組ばっかりやってますよね(笑)。俗なことでも聖なことでも、世界は繋がっているから、私たちが日々考えていることと同じだからこそ、それを共有することを楽しめる、っていうことなんでしょうね。それがシェイクスピアの時代から脈々と生き続けている、とも言えるのかなあ、と。

登場人物たちが話していることは、観客も「うんうん、そうだよな」って思ったり「いや、それはどうなの?」(←これがとても大事!)って思ったりするんですが、それはたまたま俳優たちが観客よりも少しだけ先じて言葉にしているだけってことなんだね。「たまたま」俳優たちがそれを話していただけで、それを聞いて観客もまた同じようにその言葉に宿る感情を感じる。それもまたひとつの「shared experience」なわけ。

 

で、実際上演されていた『お気に召すまま』のプロダクションがどうだったかというと、なかなか良かった。たぶん『お気に召すまま』ってもっと暗い話として仕立て上げることもできるんだけど、今回のはしなやかでにぎやかな感じ。衣装は古い時代のものだけど感覚的には現代っぽさもあり、最後の大団円はサンバみたいな音楽でフェスティヴに盛り上がったりしてました。

何より良かったのは、このグローブ座ならではの、“shared experience”の場であることをすごく意識して観客を巻き込む演出を徹底してたことですね。そのためにひょっとしたら舞台上の求心力というものが多少削がれて、その点を指摘して批判するひともいるかもしれないですけれども、僕としては、「演劇とは何か?」を考えるための最高にいい材料の一部になってくれてた気がして、ありがたかった。俳優たちが客席の中にまぎれて舞台を眺めていたり、客席を何事もなく通って舞台に登場したり。ジェイクイズなんて2階3階のバルコニーからセリフを発したりしてましたね。

それから、紙。第3幕第2場で、ロザリンドに恋するオーランドウが愛を綴った紙片を樹に貼り付けるっていうシーンがあるんですが、このときに実際に舞台上のオーランドウが紙を何枚も持ってやってくるだけじゃなくて、バルコニーの上から、あるいは平土間で、ステュワードの方々が(つまり舞監チームですらない)言葉が書かれた大量の紙を撒いたりするんですよ。この紙のばら撒きはカーテンコールでも行われて、観客はその紙に書かれた言葉を“お土産”持って帰ることができます(笑)。でもこれも大変優れた演出だと思うんだね。まずスチュワードの方が撒くっていうところがいい。舞監チームは舞台側のひとたちだけど、スチュワードさんたちは観客側のひとたちだからさ。そして“お土産”。みんな欲しがるでしょ? で実際それらの言葉は劇場を出て、それぞれのうちまで運ばれていく。世界はすべてお芝居だから。苗木に水を与えるように、演劇であるはずの世界に言葉がもたらされる。そのことを、きっと多くのひとたちは、他の誰かに、家族とか恋人とか、この日体験した芝居のことと一緒に、笑顔を浮かべながら、話すでしょう。そうやって演劇はまた、劇場にいなかったひとたちも巻き込んだ「shared experience」になるんですね。ひとによっては、その紙片をずっとうちの壁とかに飾ったりもするかもしれない。・・・あ、それ、僕のことです(笑)

演出はテア・シャロック(Thea Sharrock)。女性ということもあってか、ロザリンドとシーリアをすごく生気があって活きた女性として描いてた。チャーミングで狡猾でセクシーで。特にロザリンドを演じたナオミ・フレデリックが男装したときにも女性性が零れ落ちてくる感じもあって、演出と俳優の共同作業がうまくいった好例。他の俳優もほとんど活きてましたね。プロダクション全体として良かったなあ。

まだまだ勉強しなくちゃいかんことは多いですよ、ほんと。今回のロンドン滞在で様々なことを学んだと思いますが、グローブ座の『お気に召すまま』は、“学び”という意味では今回の滞在のハイライトだったかもしれないです。たぶん前日に『ハムレット』を、その数日前に『冬物語』を観たっていうその流れも大きかったんだろうなあ。素敵な体験をした、うん、これは間違いないですね。

だから、せっかく獲得したことは、試したりしないとなぁ。

いやいや、ほんとに。ですよ。

 

<2009年6月14日のブログ>